03. 供養にまつわるキケン


私が学生のころ、父が病気で他界しました。


父の死後しばらくは、「いまの自分があるのは、父やご先祖様の存在があってこそ。感謝を伝えるため、法事や墓参りは大切にしなければ」と思っていました。故人への敬意と私たちを見守っていてと願いながら手を合わせていました。



父が他界し数十年たった今。「これまでの供養を父は本当に喜んでいるのだろうか?」という思いが頭をよぎります。一般的な法事を行わないと、親戚や周囲から「バチ当たり!」と非難されそう。


身内に不幸が続いたときには、「先祖供養をおろそかにするからよ」ととがめられそうです。故人を敬う気持ちに変わりはありません。ただ何かと供養に結びつけられることに、疑問を感じずにおれません。なにより亡き父はどう思っているのかと感じていました。



『供養はあまり必要ないようです』


日本では、お墓や仏壇を「故人と会える場所」ととらえる方が多いようです。故人が私たちを見守ってくれて、私たちが故人と向き合う場所として。それでは 故人の側からみるとどうなのでしょうか。



故人は「レイコン」として死後の世界に向かいます。


死後の世界に慣れるまで、悪戦苦闘の連続のです。この世で例えると、初めての土地で道案内を求めるも、交番どころか人っ子一人見当たらず、不安を抱えてさまよい続ける。死後しばらくはみな右も左も分からず、死後の世界の法則を理解するのに四苦八苦。生きていたころを懐かしむ余裕はみじんもないようです。


そんな時、お経や法事が死後の世界への順応の手助けになるかと言えば…どうやらそんな効果はないようです。



『あの人へ向けた思いが、その人に届くとは限らない』


お墓に向かって泣いたり、毎日お経を唱え強く祈る。それで思いは届くのでしょうか?死後のセカイのどこに居るのかも、そして思いを伝える通信手段も分からないのに…。



実際のトコロ、思いが届くのは困難


故人への強い思いは「念」となって出ていきます。そして念を受け取るのが誰なのか、これが重要。たまたま近くにいた不道徳なレイコンがキャッチすることもあるようです。無関係なレイコンなのに…?そんなの関係ありません。退屈していたレイコンには棚からぼたもちかもしれません。


念をキャッチするレイコンの霊的レベル、また自分の霊的なカラダの状態によっては大きなダメージを受けることもあるようです。



『供養してないからといって、そうそうバチはあたらない』


不幸が重なった時の『供養が足りないからだ』。そもそも先祖がバチを当ててくるのでしょうか?熱心な信仰を持っていた先祖であれば怒るかもしれません。しかし親族よりもこの世をうろつく不道徳なレイコンのほうが悪さをしてくるでしょう。



供養を否定する気はありません。供養をしているか否かで、私たちの幸不幸は決まらないと思います。なにかと供養に結び付ける商売や宗教が多いようですから、決して騙されないようにしなくてはなりません。